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好き嫌い

  • 2016/08/08(月) 16:56:55

 世界観の構築における好き嫌いって意味で
これだけは言いたい、ということがある。

 PS2時代から出てき始めて
最近、特に雰囲気ゲーと言われるもので顕著なんだけど、
ありもしない罪をでっちあげて
プレイヤーに被せる作品は「ない」と思っている。

 具体的に言えば、冒険の舞台が
昔人類同士の戦争によって滅んだところとかね。

 これどういうことかと言うと、
要するに人間に対しての全否定が
その世界の精神的な根っこに存在している。

(もちろん戦争の後で荒廃した舞台となると話は別。
その手の作品は蛮性と善性が天秤にかかる構造となるし
往々にして善性が打ち勝つ。)




 同様に、意識的に転換させない限りは
ひたすら人間の否定で物語を進めることになる。

 大概は「この世界はどういう舞台か」を
ミステリー風味にしているから
それを掴むだけで物語が終わる。

 つまるところ否定から肯定への価値観の転換はない。
雰囲気ゲーって要するにドラマによって
価値観を転換する力がない作品の総称だから
まぁしかたないっちゃしかたないんだけど。



 SFC時代にありがちだった
「自分達の力で滅んだ超古代文明が遠くにあって」とか
それはまた別の話になる。ちなみにそういうのは好き。
ロマンが香ってくるし、自分達は恐ろしい技術を
手に入れてしまったという恐怖の発露だろうしね。

 大事なのは
・人間同士(自分達)の争いで
・自分達の存在の基盤が滅んだ
この2点。

 ストレートに言ってしまうと、その世界には
「人間の滅亡を止める良心・力」は
存在していない前提が出来上がる。

 更に言うと、怨恨・憎しみ、利己心が蔓延していて
それが具体的な転換を成されていない世界……
要するに人間が居ないから0なのであって
人間が出てくれば再びマイナスに行くよ、という
前提があるとも取れる。

 だからそういう舞台にする以上、
意図的にその良心を具現化させないといけないし
あるいはマイナスの価値観への対抗する存在が必要。



 でもこういう舞台を作る人間はそれができない。
結局、そういうモノを作る奴は自分の中にある
人間への否定的な価値観に振り回されている。

 一時期、
・今まで主人公がやってきたことは悪なんだ
・頑張れば頑張るほど物事は悪くなる
と言わんとしてる作品が多かったが、これも同様。

 どうか「浸りたい」ナルシストの間だけで留めて
世間には一切顔出ししないでくれと思っている笑



 また、振り回されているという意味で
最近特に顕著になっている傾向として
自分が被害者・弱き者であるという前提に立って
主人公の悪行を肯定する作品が多い。

 というか地味な売れ筋の一つ。
ゲームにしても漫画にしても。

 恐らくではあるが、作者自身が被害者意識から来る
悪い行い・意識を全肯定しようとしていると思う。

 ゲームの場合は
「その道ってお前(プレイヤー)が選んだ道だからな」
という言い訳を働かせられるから、
漫画よりもめちゃくちゃにエグいし、
その点でもってプレイヤーを自己肯定の人形にしている。



 こういうのって神の救済が限界点を迎えた
キリスト教独自のナルシシズムかと思っていたけど
若い子がこういうの好きってことは、多くの若人が
「自分は被害者である」と感じているのだろう。

 悪いことをしている自分を救おうとしているキャラが居て
更にそれをも殺したりすることで感動を演出している……
というのが受けるのは、非常に根が深い。
この手のが受けるのって

・どんなに悪いことをしたとしても
自分は救われるべき被害者である
・救済に働く善なる者も
「自分と同じような」苦しみに立たせることができる

 この2つの側面を持っていると思う。
こういった精神構造の者はハッキリ言って
西洋キリスト教的な価値観では絶対に救済されない。

 (ついでに言うと、「自分と同じような苦しみ」
というのは大概の場合は肥大化しており、
自分の苦しみを10倍にも100倍にもして他人に被せる。)



 多少話は変わってくるが、
既存の救済観の限界点を描いたのが(話を聞く上では)
劇場版のまどか☆マギカなのだと思う。

 もちろんめちゃくちゃに掘り下げられて描いてるだろうし
ここの文章とは比べようもないものだ。

 蛇足的なモノの言いようではあるが、
人類の限界点を描くだけで留まってしまったとしても
この手の作品は絶対に存在するべきだろう。

 正確な問いや疑問の存在は
それへの解答と等しい価値を持っている。これは絶対に。

 ありもしない罪をでっちあげるのは大っ嫌いだが、
今ここにある限界点……罪というと大げさだけど、
そういうものを描く存在はある意味では本当にありがたい。



 この2つって似てるようでいて全然違う。
それに触れた後の受け手の意識が真逆。

 前者はフィットした人間は何か癒される。それだけ。
そしてそれ以外は気分を悪くさせる。本当にそれだけ。

 後者は衝撃を感じながらも
今の自分は本当に正しいのかという問いかけが
無意識的に働くだろう。

 さくっと言えば、何かしらの解答、
あるいはその作品への応答を求めるようになるかどうか。
前者にはそれがない。そして後者にはそれがある。

 大衆の意識・無意識が解答へ向くのならば
それは価値観を提供することの一環だと思う。
後は誰が解答を出すかだけだ。